よみむめも

正しい瞬間に正しいことばを見つけるために

フェデリコ・フェリーニ、ジョヴァンニ・グラッツィーニ(1988)、竹山博英訳、「フェリーニ、映画を語る」、筑摩書房

My Favorite Expression
「きみは学校に好意と感謝の念を示しているが、子どもの教育には不適当だと思っているようだね.もし教育大臣になったら、学校をどんなふうに改革するかい?」
私には子どもがないし、甥や姪にもめったに会わず、いつも映画製作にかかりっきりだから、現在の学校の状態がわからない.ただ建物の外観がきれいになったことと、規律が大幅にゆるめられたことを除けば、私の時代とさほど変わっているとは思えない.つまり生徒の自己形成補助という責任をはたす意欲がない、その準備が無い、と見える.私が言いたいのは、学校に入る年齢の子どもは現実と想像力の区別があいまいで、意識の世界は発達し始めたばかりだ、ということだ.
それに反して、子どもの非理性的な、夢の世界、深層との通信の世界はずっと広大で、意識の世界との境界ははっきりせず、まだ薄い膜でへだてられているだけで、しかも孔だらけだから、交替、浸透、不意の侵入といった現象が起こりうる.年とともにあっけなく消えてしまう、こうした至福の状態は、学校では、生命能力の拡張、知識の宝庫、貴重な宝として認められ、保護されるのではなく、
計画的に無視され、疑いと不信の目で見られ、子どもが押し込まれるべき、紋切り型の秩序の干渉にあう.これはだれの罪でもなく、普通教育問題に直面するときの、私たちの精神的怠惰、無関心、無能力のせいだ.
私たちは子どもの世界に根本的には注意を払っておらず、子どもとは、訂正が必要な誤りだと考えている.
だが、本当はやや変わった人物とみなすべきで、現実をとらえるのにまだ未発達だが無傷のままの手段をもち、まるで自然の事物のように、私たちが失ってしまった知識をまだ保持し、私たちが忘れたり強制的に抹殺した多くのことを知っている存在と考えるべきだ.
もし子どもを持っているのなら、まず私が子どもから学ぼうとするだろう.親は決まって反対のことをする.子どもにばかげた知識を押しつけ、子どもに問うことはしない.親がかがみこんで、子どもに、何をしているのか、何が欲しいのか、猫をどんな風にみているか、雨はどうか、夜はどんな夢を見たか、なぜこわがっているのか、訊いてみる姿など見たことがない.私たちは様々な問題にかかりきりで、現実への近視眼的見方に完全にとらわれている.
私は、横暴で、残忍で、動物的な無邪気さを持つ、しかめ面の、おどけた、あの小さな狂人にいつも引きつけられてきた.私が作らないで後悔している映画は……実際には不可能なのだが……都市の郊外の大きな建物に住んでいる2、3歳の子ども30人の話だ.
子ども同士が階段や踊り場で出会うときに交わす視線、扉の背後にいる時、揺りかごに入っている時、あるいは乱暴に手をつなぎあっている時の、不思議な、テレパシーによる伝達、こうしたものが私をひきつける.子どもたちが目にし、頭に自分なりに描いている広大な共同住宅での生活、階段や廊下や前庭での、完全な愛と憎しみと不幸.そして子どもたちは幼稚園に連れて行かれ、最初の日にうさぎのように去勢されてしまう……映画化できなかった企画の中でも、特にこの企画を考えると『マストルナ』とともに、きまって私が企画自体に非難されているような気分になる.おそらくおかしくて感動的な映画になっただろう.あの人形じみた子どもたちは大きな宝物庫であり、頭や心や腹の中に、小さくて巨大な金庫を持ち、少しずつ消えてゆく秘密をかかえこんでいる