よみむめも

正しい瞬間に正しいことばを見つけるために

千葉聡(2017)、「歌うカタツムリ」、岩波新書

Abridgment for Me

教科書で知ることができる進化生物学が整うまで、つまり、1930年以降のメンデルが改めて評価されるよりもずっと前、偉大なるチャールズ・ダーウィンの亡くなった後に始まる、研究者たちが夢中になった時間を辿ったノンフィクション(ところで、同じ材料を別の価値観を持った違う研究者が真剣に自分の物語を作り上げる研究の遍歴を読んだ後では、改めてノンフィクションって何だろう?と考えてしまう). 1888年のトマス・ギュリックの論文、自然淘汰理論とはやや異なる発見と仮説である地理的隔離を重視するジョン・トマス・ギュリック(日本で布教活動をした牧師)、ジョージ・ロマネス(エジンバラ大学の教授、ダーウィンの最後の弟子)、彼らの理論を頑に拒絶するアルフレッド・ウォレス、彼らの論争を起点にヘンリー・クランプトン(1905年にギュリックの論文に影響を受けてフィールドワークに取り憑かれて20年以上を熱帯の茂みでカタツムリを集め続けた)、ロナルド・フィッシャー(得意の数学で優生学指向をもってアプローチをしたが、優生学の実践は第二次世界大戦によって断たれる)、エドムンド・フォード(生物音痴のフィッシャーを支えた)、シーウェル・ライト(フィッシャーの適応主義:進化プロセスを専ら自然淘汰に求める理論に遺伝的浮動のモデルで大きな一石を投じた)、シリル・ダイバー、テオドシウス・ドブジャンスキー、これに対抗した論文を発表したフィリップ・シェパードとアーサー・ケイン、この2人と同じ時期に同じモリマイマイについての同じ内容の野外調査を、まったく別のフィールドで、まったく逆の結論を導き出したマキシム・ラモット、ラモットと同じ観察からブライアン・C・クラークが導き出した自然淘汰の解釈と実証……そして、進化と発生学を関連づけたスティーブン・グールドの遺伝的革命(断続平衡説)と敗北、 日本では、E.S.モース、ナメクジの池田嘉平、遺伝学者の駒井卓、オナジマイマイの交尾観察をした貝類学者の江村重雄……速水格、千葉聡……

My Favorite Expression

「解決への道は、理論と実験室とフィールドの果てなき研究サイクルなのだ」 「本来、強者は弱者なのだ」 「サイエンスの生態系で行われている営みの一つは、真実を知ること、理解することを賭けた戦いである」

Intriguing References

「島の生物地理学の理論」ロバート・マッカーサーエドワード・ウィルソン

My Impressions

種分化プロセスの「それ」を、なぜ適応と呼ぶのか、偶然を介する創造あるいは多様性との違いは何なのか、適応の結果の種分化と地理的隔離とランダム変化(に適応した)種分化の違いは何なのか、適応の結果と副産物と呼ばれるものは同じなのか違うのか、「ニッチがあく」ことは偶然なのか、法則を持った繰り返しなのか?ここに登場した研究者の論文を読むことも(仮に手にすることができたとしても数学モデルなるものを解析できない)私には、結局のところ研究者の確信/主張の核心なり、揺るがぬ証拠なりを理解できていないらしく、激しい論争のどちらも同じことを別の表現で語っているように思えてくるのだけど、それでも興奮した.ひとつにはフィールドで目を皿のようにしてサンプリングしている臨場感があったのと、コンピューター解析も含めて、実験データで補強される説明に、研究者たちの底知れない情熱を感じたからだと思う. ところで、クランプトンと実験室のトマス・モーガンの間に、つまり歴史の早い時期に、フィッシャーとフォードのように学説の違いを越えたコミュニケーションがあったら、進化論の学説の展開は今とは違うものになっていたのだろうか?全てダーウィンの想定内か? 進化について100年に渡って議論を続けているヒトの適応放散は、他の生物の進化を邪魔しているだろうか?ヒトが、多分、進化のゲームでしているズル(ルール違反)は折り込み済みか?(誰が?……思わず、ここで神と口に出かかる).現存するヒト自らに見えるトレード・オフはあるだろうか?これも愚問だろうか?もうひとつ、ヒトとAIは「生物的に」競ってしまうのだろうか?

 

https://www.iwanami.co.jp/book/b287504.html